2016年03月16日

『連句茶話』 鈴木漠

 鈴木漠さんから『連句茶話』という本が送られてきた。これは自分にとって待望久しい本だった。漠さんが連句のグループ誌として定期的に発行している「おたくさ」という小冊子がある。そこにこの「連句茶話」が連載されていて(元は「六甲」という月刊短歌誌での連載なので、転載と言うべきだが)、それを毎回楽しみにしていた。「茶話」と謙虚な命名をされているが、内容は奥深い。毎回、へえ、そうなのかと驚かされ、勉強になることが多い。例えば、「連句」という呼称、明治になってから高浜虚子が従来の俳諧連歌をそう名付けたと思っていたら、蕪村も連句集という呼称を用いていたといい、それよりはるか前、8世紀の唐代の書家、顔真卿(がん・しんけい)の書にもこの「連句」という言葉が出てくるとのこと。さらに対話形式の詩と言うことであれば、紀元前2世紀、漢の武帝の時代にまでさかのぼると記されている。含蓄に富んでいて興味は尽きない。

 ここ3年ほど、大学の創作演習の授業で学生たちに連句をやらせている。みな連句なんて初めてだから、奈良時代の連歌から今日の俳句、さらに連詩に至る歴史をまず最初に講義し、それから始める。連句にはいろいろと細かいきまりがあるが、細かいことを言っていると進まないので、大まかな基本だけを押さえて行う。それでもなかなか進まない。1時間半の授業で4句できるかできないかといったところ。そんな具合なので、1巻(歌仙36句)が仕上がるのに2ヶ月半ほどかかる。
 連句をやらせることにしたのは飛躍の勉強になると思ったからだった。飛躍がなければ連句はおもしろくない。いくら五七五のリズムがあっても、散文の垂れ流しのようになってしまう。それで飛躍を強調するのだが、学生たちにはこれが難しいらしく、つい前の句の続きのように付けてしまう。それでダメ出ししたりしているうちに時間がどんどん過ぎていく。
 1例を挙げれば、

  アルバムを見つけて過(よ)ぎるあなたの背
     カレンダー見れば明日はゴミの日
  カランコエ開いた星に願い込め
     マフラー巻いてドアを開いた  

 この「マフラー巻いてドアを開いた」は付きすぎていてダメだと言う。それでもう一度全員に考えさせるのだが、出てこない。沈黙のまま20分以上が過ぎて、フリーズ状態に。そこでやむなく、こんなふうに付けたらどうかと、提示する。
     最後の一行冬のポストへ
 「アルバム」から恋を詠む場だったのでこのようにしたのだが、学生たちは飛躍の意味をそれなりに理解してくれたようだった(この句がいいかどうかは別にして)。
 こんなふうに、やっている時はみな大変そうだが、1巻が仕上がるとそれなりに満足そうな顔をしてくれる。少しは連句のおもしろみを分かってもらえただろうか?
 
posted by 高階杞一 at 13:11| Comment(0) |